相生古こぼれ話

相生古こぼれ話 地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です
さて、今月はどのようなお話でしょうか

MC:    担当D:サッキ
配信日:毎月1回
  • 相生古こぼれ話 121回「感状山城誕生」 2025年8月12日

    相生いにしえこぼれ話 第121回 「感状山城誕生」

    この番組は、地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。さて、今月はどのようなお話でしょうか

    ではお聞きください

    相生いにしえこぼれ話 第121回 「感状山城誕生」

    南北朝の時代、感状山城がまだ瓜生山城(うりゅうざんじょう)と呼ばれていたころのお話です。

    新田義貞に追われて播磨まで逃げてきた足利尊氏は、赤松氏の援護を受けます。その折、赤松円心の三男則祐(そくゆう)は、父に命じられるまま瓜生山に城を築いて同志と籠城しました。

    新田軍は五万もの大軍を率いて押し寄せてきましたが、則祐はこの城で新田軍を引き付け、時間を稼ぎました。

    その結果、上郡の白旗城に籠る赤松一族の危機を救い、足利尊氏が九州へ逃げ延びて体制を組みなおすのを助けることができました。

    のちに尊氏からその軍功を褒めたたえる感謝状を受け取ったことから、この瓜生山城は感状山城と呼ばれるようになったと言われています。

    確かに、則祐が、尊氏を追ってきた新田軍を足止めするのに感状山を使ったのは、現地に行ってみるとよくわかります。たいへん見通しがよく、敵勢が攻めてくるのが手に取るように見えますから、その情報を足利勢にいち早く伝えることができたのです。白旗城では、何万もの敵の動きを探れるだけの景観に恵まれていません。

    こういうお話は伝承として伝わっています。伝承というのは、いろいろなものを混ぜて面白く伝えていますから、そのまま信じると危険です。それだけに注意してかかる必要がありますが、分析してみると総論として間違っていないことも多いのです。

    おそらく、則祐があの山で手柄をあげたのは間違いないでしょう。

    赤松氏が一族をあげて尊氏を支援したおかげで、1338年、室町時代となる足利幕府が誕生したと言っても過言ではないのかもしれません。

    今回は、相生市教育委員会発行「国指定史跡 感情山城跡 講演記録集」より編集・引用しました。

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