相生古こぼれ話

相生古こぼれ話 地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です
さて、今月はどのようなお話でしょうか

MC:    担当D:サッキ
配信日:毎月1回
  • 相生古こぼれ話123回「唐端清太郎(からはたせいたろう)の物語 その一」 2025年12月12日

    相生いにしえこぼれ話 第123回 「唐端清太郎(からはたせいたろう)の物語 その一」

    この番組は、地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。さて、今月はどのようなお話でしょうか

    ではお聞きください

    相生いにしえこぼれ話 第123回「唐端清太郎(からはたせいたろう)の物語 その一」

    なぎさホールから西の方を見ると、対岸の小高い丘に石碑が建っている。この場所は「雨香園(うこうえん)と言い、近づいてみると石碑には「故唐端清太郎之碑」と刻まれている。石碑の主である唐端清太郎は、一寒村(いちかんそん)であった相生を「西の神戸にする」と決心して相生の発展に尽くした人である。

    唐端清太郎は、江戸時代が終わる少し前に、今の姫路市飾東町(しきとうちょう)唐端新(からはたしん)という村に生まれた。現在の地図でいうと、播但道の花田インターから東に走ったところにあり、もう少し東に行くと加古川市に入る

    この場所を訪れて、「唐端さんというお宅はありますか」と尋ねても、「そんな人はいませんよ」という返事が返ってくる。しかし、「先祖に藤蔵(とうぞう)さんという方がおられた家ですが」と言えば、「ああ藤蔵さんね、その人なら知ってるわ」と言う。今も地元で有名な藤蔵さんは、唐端清太郎の祖父にあたる。

    この村には「思い出川」という、大雨が降ると思い出したように増水する川がある。この川から水を安定して取るのは無理であったので稲作ができず、村人は畑を作り、出稼ぎをして生計を立てていた。 しかし、生活は苦しく、天保7年(1836年)の飢饉では村人がついに餓死するまでになってしまった。清太郎の祖父藤蔵は、溜池があれば水を安定して供給できるので、村で今までできなかった米作りができるようになると考えた。彼は、資金集めに奔走し、苦労の末に溜池を完成させた。その溜池は今も村で使われている。姫路藩主の酒井忠学(さかいただのり)はたいそう喜んで、藤蔵に唐端という姓を与え帯刀を許した。

    村のはずれに、明治29年(1896年)に建てられた「唐端新村開墾碑」が残されており、藤蔵の偉業を記している。石碑の最後に「亀山雲平(かめやまうんぺい)撰、藤蔵孫唐端清太郎書」と刻まれており、姫路の大学者亀山雲平が文章を作り、孫の清太郎が清書したことがわかる。

    文久2年(1862年)相生発展の礎となった男、唐端清太郎はこの地で生まれた。

    今回は、相生いきいきネット発行 「唐端清太郎の物語」より編集・引用しました

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