相生いにしえこぼれ話 第119回 「竹島の思い出」
この番組は、地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。
さて、今月はどのようなお話でしょうか
ではお聞きください
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相生いにしえこぼれ話 第119回 「竹島の思い出」
大谷橋を渡って地蔵岬を曲がると、すぐ目の前に樹木で覆われた竹島が静かな海上にポツンと見えたものである。
子供のころから聞かされていた語り伝えによると、この島には良質の竹が群生していたので、竹島の名で呼ばれていたらしい。
かつて、大島城の城主が、この島の竹を矢竹して利用するようになり、大切に保存していたので、住民の乱伐を防ぐため、この島には古くから大蛇が主として棲みつき、島に近づく者は一吞みにされると警告を出していたと思われる。
そのため、町の古老たちは、この島には上がるなと子供たちに注意していたものであった。実際に、島の樹林の中に大蛇の抜け殻を見かけたと話す者もいた。
私たち子供はそうした話を信じてはいなかったが、大蛇の抜け殻があっても不思議ではないほどに樹木が密生していて、近づき難いところに思えた。
小学校高学年になると遠泳試験があり、その際にはこの島の周りを回った。一周すると25丁、二周すると50丁に合格する。一周するのには1時間半を要した。
この島の東側水路は、那波港に出入りする船の通路にもなっていたので、八幡さんの祭りには鰯浜や坪根から大漁旗をなびかせた参詣船で賑わいを見せていた。
中学生の頃には、この島を見ながらの通学の毎日だったが、四季折々に変化を見せる風情に詩情が芽生えるきっかけになったものだった。殊に、朝霧の中に浮かぶ島影の静けさは、まさに西洋の名画をそこに見る思いがしたもので、高齢になった今でも私の頭から消えることはない。
この美しい竹島も、戦時中の埋め立てによって陸続きになってしまった。さらに、国道250号線がこの島を真っ二つに割り、相生大橋によって那波の丘の台に結び付けられ、無残にも岩肌を醜くさらけ出している。伝説のベールは剥がされ、情緒も消えてしまった。
今回は江見錬太郎著「ふるさと想い出の記」より引用しました。