小正月の1月15日に行われる「どんど焼」。その火は神様の火の様な荘厳さを感じます。
その年のしめ縄を焼いたり、前年のお守りを焼いたり書初めで失敗した半紙を焼いたり、お鏡餅をやいたり、その風景はいつの時代も変わらないものですね。でもちょっと物騒なこともあったらしいです。すこし昔の「どんど焼」の様子です。お聞きください。
朝早くに点火するのでsakkiは燃えた後の「どんど」しか見たことがありません。最近は昼間にする場所も出てきました。もっと遅い時間にして欲しい人は他にもいるんだと少し安心しました。
相生の釜出集落の八柱神社では、年に2回とんど焼をします。その様子も合わせてご覧ください。
秋祭り 釜出のとんど – YouTube (コスモスムービーより 2009年 10月)
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第90回 相生古こぼれ話 「どんど正月」
正月は三が日と言われていたものだが、生活のリズムが悠長であった昭和の初期には、七草を過ぎると屠蘇気分も抜けているはずなのに、1月15日の小正月までは正月の延長のような雰囲気が残っていたものであった。
その正月気分を一新することになったのが「どんど焼き」の行事で、この日は「どんど正月」と言って、人々に親しまれてきた習慣だった。
「どんど」は、オオの町では、上所、北所、南所のそれぞれの神社の境内に一基ずつ作られることになっていた。この造作に奉仕するのは氏子の若い衆たちで、古老たちの指導によって作り上げられる。前日の14日には、工場を休み、或いは畑仕事や出漁を見合わせての労力提供で、その出来栄えを競い合うようにして作りあげられることになったものだが、木々の伐採から運搬、組み立てと、大変な仕事であったようだ。
かつては、上所、北所、南所の若い衆が、それぞれ相手方の「どんど」を狙って焼き討ちをやり合うといった物騒な習慣があったらしい。その名残か、15日早朝の点火までは若い衆や子供たちで徹夜で看視するといったことが行われていた。
天が台の尾根が明るくなった空にくっきり黒ずんで浮かんでくるころ、「どんど」を囲む人々の数も増えてきて、みんなで火付けを待つようになる。やがて天満神社の宮司さんが社殿の御神灯から付け木に移しとった火を「どんど」の床下に投げ入れると、白煙が藁の間から流れ出し巨体にまつわり這い上がっていくのである。
もくもくと噴き出していた白い煙が青みを帯びてくると、やがて茶褐色に変じ、火焔が空間をなめるように中心を伝って勢いよく昇天するようになる。すると「どんど」を取り巻く群衆から、「あがったあっ!」という歓声が一斉に湧き上がる。
「パチ、パチッ」と弾くような音がそこここから聞こえ、茶褐色の煙が完全に朱に染まった紅の炎になると、集まっている人々の顔に赤く反射させてくる。そして中心を伝いあがる炎は空に激しい勢いを繰り返して見せる。その頃になると、天が台は朝の陽の光を浴びて浮かび上がってくる。
「どんど」の火勢はさらに厳しさを増して近づくのを拒否するほどになる。点火してから30分もかかった頃であろうか。
燃え盛る「どんど」は、崩れ落ちる前に、支柱の松の根方は世話役たちによって引き倒され、燃えかけの枝などが投げ込まれ、完全燃焼するように手掛けられる。
造船所に出かける人々も、ここに顔をのぞかせてから勤めに出かけたし、子供たちは登校時間ぎりぎりまで居座ったものであった。下校すると鞄を投げ捨てて一斉に境内へ駆けつけたが、そこに残る「どんど」の痕跡に、「ああ、これで正月も去んで(いんで)しまったか」と子供なりの感慨を持ったものだった。
今回は、江見練三郎著「ふるさと想い出の記」より引用いたしました。
(相生らじお「古こぼれ話」は見えるらじおを目指しています)