相生いにしえこぼれ話 第124回 「唐端清太郎(からはたせいたろう)の物語 その二

相生いにしえこぼれ話 第124回 「唐端清太郎(からはたせいたろう)の物語 その二

この番組は、地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。さて、今月はどのようなお話でしょうか

ではお聞きください

相生いにしえこぼれ話 第124回 「唐端清太郎(からはたせいたろう)の物語 その二」

唐端清太郎は、一寒村であった相生を「西の神戸にする」と決心して相生の発展に尽くした人である。

清太郎が生まれた文久の時代は、外国から開国を迫られて不穏な時代だった。ここの頃には今のような学校はまだなかったが、父 治三郎(じさぶろう)は、隣村の医者が開いている寺子屋で清太郎を勉強させた。時代は明治になるころであった。清太郎は学問を好み成績も優秀で、明治14年、19歳の時に、役所に届けるいろいろな文書の書式をまとめた「証書公用文例」という本を出版しており、才能の片鱗をうかがうことができる。

その後、大学に入学した清太郎は、青森の弘前の東奥義塾(とうおうぎじゅく)で法律を学び、卒業の際に「治外法権論」という論文を青森の新聞社「青森新報」に投稿している。

この頃、明治政府は、江戸幕府が開国時に結んだ不平等条約のため困惑していた時代であった。学業を終えた清太郎は青森新報に入社して論評記事を書き、「明解で分かりやすい」と読者の評判になった。ところが、母親が倒れたとの知らせが入り、22歳の時に故郷へ帰った。

それをきっかけに、公務員として兵庫県で働くことになり、衛生、土木、教育などを担当した。

明治も中ごろになるといろいろな制度が作られた。清太郎は、人々に新制度をわかってもらおうと、役所での仕事の傍ら、「町村制度未来(あした)の夢」、「政界の波」、「町村会議員選挙の心得」という本を矢継ぎ早に出版した。

「町村制度未来(あした)の夢」が出版された翌年の明治22年に明治憲法が公布され、日本は近代国家としての体裁を整えた。同じ年に明治の大合併が実施されて、江戸時代から引き継がれた小さい村が合併して大きい単位になった。

例えば、現在の若狭野村は、12の小さい村が合併して新しく若狭野村となり、この状態は相生市と合併するまで65年間続いた。また、相生(おお)村は野瀬村を合併して新しい相生(おお)村になった。

清太郎が相生(おお)村の村長となるのはこの後である。

今回は、相生いきいきネット発行 「唐端清太郎の物語」より編集・引用しました。

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