相生古こぼれ話第82回「ペーロン回想録」

例年、5月の最終土曜日曜に行われるペーロン祭り、相生の一大イベントです。

なぜ、相生にペーロンが。。。

今回はそのいきさつに迫ってみました。どうぞお聞きください。

1923頃のペーロン船

~sakki談~

地上のペーロン祭りは屋台がでたり、パレードがあったりしてその二日間はすごくにぎわっていました。この日だけは子供たちはお小遣いをもらって、友達と一緒にお祭りを楽しんだものです。

因みにsakkiは若いときペーロン船にのってました。数年でしたが、すごく楽しかった。年には勝てず船を降りました。

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相生古こぼれ話第82回「ペーロン回想録」

風薫る5月、最終日曜日。相生湾に繰り広げられる造船所の海上運動会「ペーロン祭り」は、個々の町の鎮守の祭りと違い、企業城下町ゆえに相生全体的な海の祭典となりました。

 ペーロン競漕の歴史は古く、西暦紀元前300年の昔、楚(そ)の宰相屈原(さいしょうくつげん)は懐王を助けて善政を敷き、名宰相といわれていましたが、陰謀により政界より退けられました。その後間もなく懐王は、秦の軍勢に捕えられ客死しました。
 屈原は楚の国運をなげいて汨羅(べきら)に身を投じて死にました。人民はこれを非常に悲しみ、「ちまき」を作って川に投げ、龍船、白龍(はくりゅう)を浮べて競漕し、その霊を慰めめたということです。ペーロン競漕はこの故事によるもので ペーロンの語源は「白龍」の中国音のパイロンがなまったものといわれています。

長崎県出身の人が多く勤務していた大正11年、当時の播磨造船所社長横尾氏が、従業員の慰安として企画された長崎県人の発案を採用し、漁船をペーロン船に急遽したて競漕したのが最初です。翌12年、社員が長崎に行きペーロン船の見取り図を写して帰り本格的にペーロン競漕を取り入れました。

 最初は長崎県出身者がふるさとを慕って始まったことがやがては社内各職域での対抗戦となり、職域全員あげての応援団も組織され、趣向を凝らした応援に町中の祭りとなり盛り上がりました。

 ペーロンの勝敗はかじ取りにかかると言われますが、あるとき船の扱いはよく知っていると自信満々の舵取りが20mも行かずに反転して大笑いになりました。後々の語り草となったと言われています。

 祭は天候のいかんに関わらず行われましたが、不思議にも雨のようなときはあっても大雨で中止はありませんでした。それにも拘わらず、昭和19年、20年、21年と不況時の4回中止され港からドラの音を聞くことはできませんでした。

(相生らじお「古こぼれ話」は見えるらじおを目指しています)

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