相生古こぼれ話 第106回 「乗り物覚え書き その一 丸山の馬車」

明治の頃から 日本を走っていた乗合馬車 大正時代には相生も走っていたのですね。

人を運ぶ馬車も子供たちにとっては格好の遊び道具だったようです。どれではお聞きください。

~Sakki談~

皆勤橋のたもとから那波駅(現在の相生駅)まで馬車が走っていたのですね。なんとハイカラな。。。

度胸試しのためにそれに飛び乗る子供たち。子供たちは「してやったり」と思ってたようですが、大人は子供たちが怪我をしないようちゃんと配慮してましたね。今では考えられない風景です。

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相生いにしえこぼれ話 第106回 「乗り物覚え書き その一 丸山の馬車」

 子どもの頃の乗り物と言って真っ先に思い出されるものと言えば、丸山の馬車である。

 「ピープー、ピープー」と馭者(ぎょしゃ)が吹き鳴らすラッパの音に調和して、「パッカ、パッカ」と聞こえる蹄の音が今も懐かしく耳の奥にこびりついている。

 神姫バスの港の待合室だった辺りに馬車の出発場があって、そこから那波駅までの定期便が出ていた。

 馬車は、海岸の道を出て大谷橋を渡ると、松の浦から薮谷(やぶたに)の本通りを抜けて、境橋(さかいばし)から川沿いの土手道を走り、芋谷(うこく)橋に出て、そこからはなだらかな坂道で駅前に出るというのがコースであった。

 途中に停留所といって決まった所はなく、路上で乗客が手で合図をすると、どこででも停めてくれた。港から那波駅までの馬車賃がいくらであったか、はっきり覚えているわけではないが、十銭くらいであったように思う。

 馬車賃がいくらであったにせよ、馬車に乗ることなどしょっちゅうあったものではなかった。結構な距離でも歩くことが当たり前だったのである。

 その馬車に私共悪ガキはよく悪戯をした。馬車がラッパを鳴らして動き出すと、素早く乗降口のタラップに足をかけ、50メートルくらいそのままタダ乗りする。そのあとタイミングを見計らって飛び降りるのだが、ゆっくり走っているとはいえ、走行中であるからたいへん危ない。そんな時には馭者が手綱を締めてスピードを落としてくれたもので、我々は悪戯が見つかったと思って慌ててさっと飛び降りたものだった。

 馭者からの一喝を浴びながら逃げ出すのであるが、「タダで乗ってこました!」と悪ガキどもは悪戯を楽しんだのである。今から思えば、スリルというには愚かなことをしていたものだとしみじみ思う。

 大正の頃の思い出である。

今回は江見錬太郎著「ふるさと想い出の記」より引用しました。

相生いにしえこぼれ話、小河大助 がお届けいたしました。

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