相生古こぼれ話第75回「松の浦の地蔵さんの申し子」

いつも前を通っている地蔵さんです。

こんなお話があったのですね。

松の浦地蔵

160年前に建立したという稲岡宗太郎が寄進したという玉垣がおおの天神さんに今も残っています。

相生古こぼれ話第75回「松の浦の地蔵さんの申し子」

今から約160年前の天保年間のことです。おおの資産家、唐土屋(もろこしや)の稲岡宗太郎夫婦は、何一つ不自由なものはない生活を送っていました。しかし、子宝に恵まれずそれが心寂しい悩みの種でした。信仰心の厚い夫婦は、朝な夕なに、地元の氏神はゆうに及ばず、八百万(やおろず)の神や佛(ほとけ)に祈願していました。すると、ある夜、夢枕に観音菩薩が立ち「地蔵尊にお願いするように」と言いました。「そうだ、地蔵尊を信仰すれば、十種の福徳があること忘れていた。」とすぐさま地蔵尊を建立してお参りすることにしました。

薮(やぶ)谷(たに)に通じる磯際道の山際にある、松の木の下に地蔵様のお堂を建てました。その後、子宝に恵まれたことは言うまでもありません。その子供の一人で次男の浅五郎は縁あって大阪の堺で酒造を営む福地家の養子になりましたが、後に浅五郎は明治4年に起きた、我が国歴史上、最後の仇討ちとして知られる高野(こうや)の仇討ちで、村上兄弟達を助け、本懐を遂げさせたという影の立役者となります。

 高野の仇討ちとは文久2年(1862)赤穂藩でおきた藩政に絡む殺傷事件のことをいい、打つものも打たれる者も同藩の者で、事件発生から9年余りの間、村上兄弟らは福地浅五郎の助けを得、高野山の寺が見える作水峠で見事仇討ちを果たしたというものです。

 磯際の松の木は枯れてしまいましたが、天保年間に稲岡夫婦が建立した村はずれにたっているお地蔵さまは今でも疫病神がおおの町に入ることを許さず、行く人帰る人を見守っています。

 なお、おおの天神さんに浅五郎の実父稲岡宗太郎が寄進した玉垣が今でも残っています

今回は棚橋順子著「ふるさと相生つれづれ草」より引用しました

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