相生いにしえこぼれ話 第117回 「相生(おお)の地名」

相生いにしえこぼれ話 第117回 「相生(おお)の地名」

この番組は、地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。
さて、今月はどのようなお話でしょうか

ではお聞きください

相生いにしえこぼれ話 第117回 「相生(おお)の地名」

今回は、相生(おお)という地名がいつの頃からあったのか、探ってみたい。
文献によると、1086年、関東の名家として知られていた海老名家が、太郎左衛門尉家季(たろうさえもんのじょういえすえ)の代になって、源義家の命により、相模の国の海老名郷(えびなごう)から播磨の国矢野荘(やののしょう)に所領替えとなって入国、那波の大島に陣屋を築き、一帯の統治をすることになった。
その後、100年を経た1186年、左馬次郎盛季(さまじろうもりすえ)のにになって、下屋敷を築くにあたり、その場所を相生(おお)の名前を付けた、と記されていることから、その頃からの呼び名であろうと推測される。
私が少年だった大正の頃、陸軍参謀本部陸地測量部が発行していた25万分の1の地図が、俗に参謀本部の地図と呼ばれ、最も権威あるものとされていた。
その地図によると、相生には「オフ」のフリガナがあったし、一般にも「おお」と呼びならわしていたから、それがこの町の正しい呼び方であったのだろう。
この町で古くから唄われてきた里謡(りよう)に、
佐方(さがた)淋しや 相生(おお)の喧(やかま)しや那波の浦こそ 都なれ
というものがあり、ここでも「おお」と発音している。
そんな風に、一般では「おお」と言う方が通りがよかったし、普通であった。しかし、私共仲間内では、「おお」という語呂がなんだか野暮ったく感じられ、敢えて「あいおい」と言っていたことを懐かしく思い出す。

今回は江見錬太郎著「ふるさと想い出の記」より引用しました。

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