相生市西部の国道2号線沿いに若狭野町雨内という地域があります。そこには和泉式部伝説が残っています。
我が子を泣く泣く手放した和泉式部、その再会に栗の木の粋なはからいがありました。
お聞きください。
~sakki談~
和泉式部を雨から守ったという「しだれぐり」はその後、那波の「得乗寺」に移されました。得乗寺の庭にはいまもなお、しだれぐりが残っています。一時は瀕死の状態だったそうですが、ご住職の努力のおかげで今は、すっかり元気になっています。その姿はこの伝説が本当だったもしれないと思わせるほどです。
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相生古こぼれ話第79回「和泉式部伝説としだれぐり」
権勢を誇った藤原道長の時代、和泉式部は夫、橘道貞との間に生まれた小式部を訳あって薬師如来像を産着にくるみ泣く泣く赤子を手放してしまいました。
時は流れ、ある時、和泉式部は仕えている中宮・藤原彰子にお供して、姫路の書写山・圓教寺に行きました。
中宮の許しで相生へ旅に出た式部は雨内村に入ったところで急な雨に降られ、近くにあった大きな栗に木の下へ逃げ込みました。すると栗の木は和泉式部を濡れない様、枝をのばししだれて重なりました。
雨があがり、日も暮れてきたところで若狭野村の豪農、五郎太夫の家に泊まることになりました。五郎太夫の家に通された時、籠いっぱいの綿を持った少女があらわれました。話をしているうちにその賢さに感心した式部は五郎太夫に「この賢い子は誰の子か?」とたづねたところ、十数年前に都で人からゆだねられた子だと答えました。五郎太夫がその時に少女が着ていた着物と持たせた薬師如来像をみせられ、昔、生き別れた我が子だと式部は確信しました。和泉式部が肌身離さずもっていた布と産着の模様も合い、産着の紐には『捨てし子を誰とりあげて育つらん 捨てぬ情を思いこそすれ』と式部の歌も書いてありました。
娘を連れて帰る和泉式部は、かわりにと薬師如来像を五郎太夫にあずけ、娘と共に都へ上りました。
娘も母の和泉式部と同じく、中宮・彰子に仕え、小式部内侍と呼ばれ歌人として活躍しました。 今回はホームページ「相生の伝説・昔話」より引用しました