相生古こぼれ話 第93回「弁当屋の話」

 造船所と対岸を結ぶ皆勤橋がまだなかった頃、大正の時代。造船所で働く人たちの弁当は家族の愛と共にこうやって船で運んでいたのですね。ほのぼのとしますね。お聞きください。

大正7年(1918年)頃の造船所

~Sakki談~

その後、お弁当は造船所の給食センターで作ってました。今は給食センターもなくなり、外注していますが、お弁当のなごりはそのまま残っています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

相生古こぼれ話 第 83 回 「弁当屋の話」

 船脚(ふなあし)をずっしりと沈めた小舟が、『ギィッ、キュッ』という艪(ろ)の音を穏やかな海面に流しながら舟首をドックに向けて波止場を離れてゆく。この舟は、家庭から託された弁当をドックに勤めている職工さんたちに届ける運搬船である。大正末期の古き良き相生の風物詩ともいえる風景であった。

 陽も高くなった昼前になると、それぞれの家庭から託された弁当を、四角い大きな竹籠に詰めて、天秤棒で担いだ弁当屋が運搬舟をもやっている波止場にやってくる。運搬舟には波止場から歩み板が架けられてあって、天秤棒を担いだ弁当屋がそれを踏むと歩み板が大きくしなって揺れる。そのしなりに調子を合わせて舟に積み込むのであるが、舟の大きさに比較して弁当が重いので船脚(ふなあし)がぐうっと沈む。

 竹籠に詰められた弁当箱というのは、高さが25㎝、奥行き、幅共に20㎝ばかりの、規定寸法で作られた四角い杉の木箱で、前蓋が引き上げ式になっていた。弁当箱の中には、二段重ねになった唐津ものの丸容器が収められ、上段は蓋つきでおかずが入れ、下段はやや背が高く飯入れであった。

 昼前には造船所のドック渡船橋のわきに、弁当運搬舟は着けられる。積み込んだ時と同じように、天秤棒に振り分けられた弁当籠は、そのまま陸揚げされて、ドックサイドのクレーン下をレール沿いに中門守衛詰め所まで運ばれてゆくのである。

 弁当箱は、時間が来ると受け取りに来る職工さんに一つ一つ渡されることになる。時間前に来ると守衛がうるさいので、サイレンと同時に受け渡しが行われていたようだ。守衛の中には、時間前に来ても大目に見てくれる者がいたようで、職工さんたちも心得ていて、その守衛の勤務の時には、多少早めに来るというものだったらしい。

 弁当屋は職工さんたちが弁当箱を返しに来るまで中門守衛控室で待っていた。そこで退屈しのぎに色々とドック内での噂話などを聞くことが出来るので、そうした情報を町中に運ぶ役割も果たしていた。時間になって、職工さんたちが空弁当箱を持ってくる。弁当屋はそれを集めると、再び舟に積み込んでドックを離れ港に戻ると、託された家々に返却して回るのであった。

 こうした弁当屋という職業がこのころにはあって、結構重宝がられていたのである。

今回は江見錬太郎著「ふるさと想い出の記」より引用しました。

(相生らじお「古こぼれ話」は見えるらじおを目指しています)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする