昔は海に流れ着いた物は拾って使っていたようです。船が難破して流れ着いた木材も使ったのでしょうね。
おおの海岸に流れ着いた木材で光明寺を改修したというお話です。
お聞きください。
【引用:棚橋順子著「ふるさと相生つれづれ草】
【光明寺】
~sakki談~
流れ着いた木材では足らず、矢野の山の木を使ったそうでそのため大柱の一本の色が違っているそうです。確かめに行くのも楽しいですね。
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相生いにしえこぼれ話第65回「伽藍再建(がらんさいけん)」
光明寺縁起(えんぎ)によれば、京都本願寺八世蓮如上人を深く信仰した海老名季重(すえしげ)は出家して、明応5年、光明寺を開いたとある。当初は今のように立派な建物と違い、本堂の前に残っている雌雄のイチョウの樹の間に建つこじんまりとしたお寺であったようだ。
ある夜、吹きに吹き荒れたものすごい台風が播州地方を吹き抜けた。港にはたくさんの木材が流れて込み、定置網を心配する人、船を心配する人、港は大騒ぎになった。
木材は九州方面から上方にでも海路運送をしている途中、台風にあったものか、あるいはどこか貯木場から流れ出たものか、いずれにせよ昔のこととて情報網もなく、流れ着いた木材をありがたく頂戴することになった。のどかというかおおらかというか今の人には想像もつかないことだ。
思いがけない海からの贈り物と村の人々は相談の結果、台風で被害をこうむった方の供養にもなると傷んでいる光明寺をこの木材で建て替えることになった。
建て替えの費用は一軒いくらと割り当てられ、出せなくて神戸方面まで出稼ぎに行った人もあったとか。また、不足の材木は矢野の山から買い求めた。大柱の一本のけやきの色が違っているのは、そのような理由があったとのことだ。
イチョウの後へ間口11間の大伽藍ができたのは、明治13年4月、赤穂の大工の手によって建て直したのが、現在の光明寺の本堂である。