相生古こぼれ話 第104回 「若衆組」

 相生の相生(おお)地区は戦前まで若衆組という若者の組織がありました。子供の頃から助け合い励ましあい長い将来にわたって苦楽を分かち合う盟血の仲間組織でした。

お聞きください。

1939年 天神祭り (相生映像アーカイブより)

~Sakki談~

今でいう青年団に相当する組織なのかなとおもいますが、青年団とはちょっと違うような。。

写真の若者の笑顔をみると生き生きとしていて眩しいかぎりです。

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相生いにしえこぼれ話 第104回 「若衆組」

 戦前までの相生の町では、古くから上町、北町、南町と小さな地区に分かれていて、それぞれ古老たちが継承してきた古い伝統と習慣をかたくなまでに踏襲することで、独特の地域環境を守り育てていた。

 そうした地域社会の伝統なり習慣なりを守ってゆくための活動の中核になっていたのが若衆組と呼ばれる組織であった。

 この若衆組制度というものは、いつのころからあったのかわからないが、上町、北町、南町に共通していたのは、それぞれの地区に鎮座する神社を精神的支柱とした体制であったことである。そして、松竹梅にあやかって、上町が松若衆、北町を梅若衆、南町を竹若衆とめでたい名で呼びならわしていた。

 若衆組は友達衆とも呼ばれ、いわゆる若い衆の集まりであったが、一般に言う友達仲間ではない。子供のころから助け合い励まし合い、長い将来にわたって苦楽を分かち合っていこうという、言わば盟血の仲間組織である。

 だから、仲間内に異変があると、学校があろうが家業があろうが、力を合わせて事に当たることになっていた。それが若衆たるものの義務であると教えられてきたし、そう心得ていた。

 「相生(おお)の連中は怖い、何かあるとすぐに団結して当たってくるからなあ。」と他の村の若者たちを嘆かせることになった相生人の連帯意識はこうした土壌の中で生まれてきたものだった。

 若衆組が晴れがましく事に当たるのは、三年ごとに回ってくる天神祭りの当番で奉納獅子舞に関わることで、地域の神社の祭礼に奉仕することであった。その活動を通して社会意識と地元意識を強めていったのである。

 高等小学校卒業後は青年団に組織のまま編入され、晴れて大人たちの仲間入りとなる。そして、奉納獅子の舞い方になったり、囃方(はやしかた)や梃子押し(てこおし)といった役目を奉仕することになるのである。

 今日、こうした若衆組織は無くなってしまい、かつて強力だった団結力や連帯感も影をひそめてしまった。寂しいことであるが時代の流れであろう。

今回は江見錬太郎著「ふるさと想い出の記」より引用しました。

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