相生古こぼれ話 第109回「乗り物覚え書き その四 飛脚と定期船」

相生古こぼれ話 
地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。
さて、今月はどのようなお話でしょうか

ではお聞きください

相生いにしえこぼれ話 第109回 「乗り物覚え書き その四 飛脚と定期船」
 乗り物の範疇には入らないが、大正の頃に「飛脚」と呼ばれていた仕事人がいた。
今で言う便利屋とも運搬屋とも言えるような仕事である。
 「ええっ!そんなものがあったんかい」と年配の方でもほとんど知る人はいない。
 当時、相生では今日に見るような都会並みの生活様式があったわけではなく、
何かあるとちょっとした買い物は姫路まで足を伸ばして調達しなければならなかった。
 だが、いちいち姫路まで出向くとなると厄介なことである。
それで、こうした人々の注文を取りまとめて、姫路まで調達に出かけて配達してくれる、といったことを生業とする者ができたのである。それを飛脚と呼んでいた。
 始めのうちは、姫路に出かける人に、ついでに買ってきてもらうということだったが、
ついでに、が度重なるうちにそれが仕事になったものであるようだった。
 「この漢方薬は二階町の薬屋にあるから」
 「三光亭(さんこうてい)の箱寿司を頼まあ」
 「紺屋町の知り合いのところへこれを届けてや」
と、種々雑多の注文があったので、それを刻明に大福帳に書き込み、
小型の荷車に竹籠を載せて、那波駅に出かけて行ったのである。
 私の記憶も鮮明ではないが、体の小さい男性が、「飛脚さん!」と呼ばれて、
頼みごとを受けているのを見たことがある。
 また、奥深い良湾をひかえたこの町は、船の交通便は欠かせない乗り物だった。
もうとっくに姿を消してしまったが、かつて松田汽船の小豆島通いの定期便が
料亭「ひふみ」の前から運行されていて、哀愁を帯びた汽笛が入出港の度に響き渡り、
この町に港町情緒を漂わせてくれたものだった。
 それに、日の浦の極東ガラス工場へは、蛭子神社前からポンポン船が往復していて、
煙突から青い輪っぱの煙を吐き出して海を進む様子は、何か余情を掻き立ててくれた。
 しかし、何と言ってもこの町の海の交通の最たるものは、
水月旅館前から造船所に通勤客を渡す手漕ぎの船であったし、
那波の港から幹部社員を送迎するランチであった。
 その後、道路の整備と車の普及で、いずれも陸の交通に様変わりしてしまい、
すっかりその面影は見られなくなってしまったのはご承知の通りである。

今回は江見錬太郎著「ふるさと想い出の記」より引用しました。