相生古こぼれ話 第74回 「おおの力石」

力自慢の若者たち。石はいまどちらにあるのでしょうね。若者たちのいたずらがほのぼのします。お聞きください

南町(みなみじょ)の若連中が力石を運んだという「南荒神社」

南荒神社には土俵場があり、夏祭りの相撲は今も続けられており、「こども転がし」も行われている。

相生いにしえこぼれ話 第74回「おおの力石」

力石の伝説は二つの流れがあります。一つは「有名な人物が力試しをした」という流れ。もう一つは「力自慢の若者が持ち上げ神社に奉納したと」いう流れです。

おおにも力石の伝説が二つあります。一つ目は、昔、武蔵坊弁慶が力に任せて山の上から岩を投げたという話です。その岩は海に落ち、磯近い海中に沈みました。今の場所でいうと松の浦のあたりです。

この岩には天が台にお参りしている水戸稲荷の祭神「宇迦御魂神(うかの みたまの かみ)」にお仕えする白龍神と天徳神が、常にお越しになり、付近を通行する舟を見守ってくださると、言われていました。しかし、広い範囲にわたって松の浦が埋め立てられ、この岩も土の中に眠ってしまい、伝説も埋もれてしまいました。

もう一つの話はおおの若者と力石のユーモラスな話です。

天神さんの境内に大きな榎の木(えのき)がありました。その木の枝は四方に広がり、幹は天を突いてそびえ、境内の神域を清めていました。その根元には大きな石が若者の力比べのシンボルとしてありました。

ある春の日の、狐も化けて出て来そうな朧(おぼろ)月夜(づきよ)のことです。一人また一人と影絵のような人影が六人、無言で天秤棒より長く、太い棒をもって石の前に立ちました。綱(つな)を広げるとその石を転がし上に乗せました。その時、近くに人の気配を感じ、見張り役があわてて合図を送り、六人は急いで木の陰にかくれました。すると、一人の男が風呂帰りか、酒が入っているのか、鼻唄まじりにいい調子で通り過ぎていきました。

 六人は又無言で素早く手を動かし、やがて四人で四方を担ぎ上げ、二人は石の左右につき、まるで泥棒のように息を殺して歩きだしました。足音も立てずに天神さんから300mほど離れた上町(かみじょ)の荒神さんまで誰にも見つからずに運び込むと、今まで無言であった者達が、「吾(ご)佐(さ)はん、やったなあ」「ああ嘉市っあん、皮むけへんなんだか」と道中の苦心や素手で運んだ時のことを、関を切ったように声をあげて愉快そうに話しました。

これを知った北町(きたじょ)の若い衆や、南町(みなみじょ)の若連中は、こうして運ばれた石を奪い返して、それぞれ天神さんや南荒神さんに納め、涼しい顔をしたといいます。昔の若者は、このような一見たわいない事ですが、明るく、無邪気に力石で力の発散をしていたのです。

 明治・大正の初めのころまでは、この様な悪さをして面白がっていたと昔を懐かしむように古老は語ってくれました。

 この話は古代信仰の石に神の霊が憑く(つく)という考え方がもととなり、石を差し上げることによって神の感応(かんのう)をしるといわれた石神信仰によるものでした。

棚橋順子著「ふるさと相生つれづれ草」より引用

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