国道250号線、相生から野瀬に続く青木鉄工所のあたりは、かつては網之浦とよばれていたのですね。今は相生4丁目になってます。
網之浦とよばれているのはこういういきさつがあったのですね。お聞きください。
1914年(大正3年)頃の写真です。奥の山は宮山です。
こう見てるはずです。
相生古こぼれ話第76回「網干し場が字名(あざめい)になった網之浦」
とある日、江戸から帰国した赤穂藩の3代藩主浅野長矩(あさのながのり)は、佐方の狩場まで遠乗りした際、相生浦まで足をのばしました。久々の帰国のためか、故郷の魚の味を懐かしみ、所望しました。お付きの人はすぐにおおの庄屋の海老名さんに伝えると、急いで漁をするよう漁師の又三郎にいいました。
網をいれると幸いにも大きなハマチが2・3本網にかかりました。この魚を差し上げたところ、長矩(ながのり)は大変喜びました。又三郎を近くに招き、今日の労をねぎらい、「願い事があればなんなりと申せ。」と言葉をかけました。
又三郎はおそるおそる「私のおもいをお叶いくださるとのこと、あり難き幸せでございます。私事では何もお願い致すことはございませんが、ただ漁に用いる網を染める場所をお願いできれば。」と言うと、長矩公は「いとも安き事、汝の思いに通りにするがよい。」と許されました。
そのいきさつについては、松本松之助(まつのすけ)氏が「私方、漁業を営むこと、代々永続し、今にいたり、二百年あまりに候、網染干し(あみぞめほし)の場所は自宅より西南あたりにあり、先祖代々、網を染め干すゆえに、網之浦ととなえし、字(あざ)となり今に来たる・・・・」と明治30年に書き記しています。
元禄の昔から国主の許しを得、大釜で漁網を染める「カシヤゲ」の場として、網を干していた網之浦は、近代に入り浜は埋め立てられ、民家が建ち、野瀬・鰯浜に通じる道も広げられました。家と青木鉄工所の間には船員クラブのモダンな建物が建ちましたが、造船所の衰退とともに無くなり、二転三転と様変わりした後、今は相生4丁目という記号に取って代わられ「網之浦」という字名だけが残っています。しかし、この字名も時を得ずして人々から忘れられてしまうことでしょう。