最近はあまりことわざを聞かなくなりました。私が子供の頃は親が言っていたように思います。小言のようにも聞こえるし、教訓のようにもきこえます。
ことわざで聞くとなるほどと納得がいったものです。
~sakki談~
これを聞くとそういえばそんなことを言っていたなあと昔を懐かしく思い出します。祖先からの「教え」をもっと大切にしないといけないと痛感しました。
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相生いにしえこぼれ話 第89回俗信と俚諺(親の格言)
かつては事につけ折りに触れ親子の対話というより、格言小言を教訓として聞いて育った。当時は生意気に反抗したものだが、頭のどこかに記憶していた小言を思い出す。
日曜日の朝、「今日はゆっくり」と布団をかぶっていると『早起きは三文の徳』とやかましく起こされる。おまけに「奈良の人は早起きせんと死んだ鹿を門の先に持ってこられるんや」と言われた。口をとがらせ「ここは奈良と違います」とブツブツいいながら起きた。昔、奈良では神の使いの鹿を殺すと死罪になったために、最悪の場合速やかに善処できるよう早起きしたというが、「アホらし、今通用することをいいなはれ」と思いながら起きたものである。
怠け者の代名詞に『仕事せん助、めし食い助、朝は寝間から出んの助、雪隠(せっちん)行くのに腰弁当』など、事あるごとに父親に聞かされた。
『若いときの苦労は買うてでもせよ』『上見りゃきりがない、下見て暮らせ』『正直者の頭に神宿る』『米を粗末にすると目がつぶれる』『足袋をはいて寝ると親の死に目に会えない』『罰は目の前にあたるが早い』『人のふり見てわがふり直せ』『負けるが勝ち』『習うより慣れよ』『情けは人の為ならず』『負け惜しみは一生文盲』『問うは当座の恥、問わぬは一生の恥』
『親の心子知らず』といわれると、『負うた子に教えられる』と言い返した。
ことある毎に折に触れ、聞かされた庶民の親の教えだった。
『親の意見と茄子の花は千に一つも無駄がない』。子の親になって初めて知る親心。親と子と家族、向こう三軒両隣、そこには人と人との暖かい密接なつながりがあった。
今回は棚橋純子(たなはしあつこ)著「ふるさと相生つれづれ草」より引用しました