相生古こぼれ話
地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。
さて、今月はどのようなお話でしょうか
ではお聞きください
相生いにしえこぼれ話 第110回 「相生の婚礼 その1」
大正の頃、結婚式のことを一般には婚礼と言っていた。
嫁とり、婿入りとも呼びならわしていた。
今日のように、神社仏閣や教会、専門の式場といった晴れがましい場所で
明るいうちに行うのとは異なり、婚家(こんか)で夜に行うものと決まっていた。
昼間に行われた婚礼はなかったように記憶している。
当時、嫁入りの荷物を婚家に持ち込む儀式は極めて重要な行事であり、
婚礼当日の早朝に送り出すことが常識とされていた。
この荷物は家の中で飾られ、近親、友人達に披露することが習慣となっていた。
この町同士の者の婚礼では、正装した「迎え女郎」と呼ばれる婦人が、
提灯を手にして嫁方に迎えの案内に立つ。
それを受けて、花嫁衣裳の花嫁が近親者に付き添われて迎えられることになる。
しかし、この町に嫁入りしてくるときは、この町にある近親者か知人の家を
「中継宿」として早々とそこに落ち着き、身支度を整えて「迎え女郎」を待つというものだった。
「迎え女郎」の案内で、花嫁の一行が婚家に着くと、
そこで「落着き餅」が一行に振舞われることになっていた。
嫁が婚家の家風に馴染み、落ち着いてくれることを願って縁起を担いだものだったのであろう。
婚家の敷居を跨いだ花嫁は、まずこの家のご先祖様に挨拶の合掌をしてから、
家族の人たちにも嫁入りしてきたことの挨拶をすることになっていた。
座敷の床の間には、高砂の翁の軸が掛けられ、その前に新夫婦の席があり、
そこを中心に左右にお膳が並べられていた。
ここで婚礼の儀式も披露宴も同時に行われるのが通常であった。
「高砂やー、この浦舟に帆をあげてー」の媒酌人の謡曲が流れる中、
新郎新婦が三々九度の盃を交わし、契りを固めるのであるが、
そのあとは披露宴に早変わりして、
深夜までさんざめく声が聞かれることになったものであった。
特に、旧家とか網元とか言われる家になると、今日は友達、明日は近所の方々、といった具合に、
三晩くらいは続けられていたと聞いたことがある。
花嫁は、次の朝にはもう婚家の一人として、襷掛けで婚礼の後始末や水仕事を手伝うことになった。
当時、ハネムーンなどといったハイカラなことはこの町ではまだ行われていなかったのである。
今回は江見錬太郎著「ふるさと想い出の記」より引用しました。