相生いにしえこぼれ話 第120回 「感状山城発掘裏話」

相生いにしえこぼれ話 第120回 「感状山城発掘裏話」

この番組は、地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。
さて、今月はどのようなお話でしょうか

ではお聞きください

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相生いにしえこぼれ話 第120回 「感状山城発掘裏話」

昭和58年頃、城郭研究家、西ケ谷恭宏(にしがややすひろ)は、相生駅の北の光明山城跡(こうみょうせんじょうせき)の測量調査を相生市教育委員会の依頼で行っていた。
彼ら一行が光明山に登ったところ、ちょうど山火事の後で山肌が露出しており、畝上竪堀(うねじょうたてぼり)が、目に入ってきた。畝上竪堀というのは、山の斜面をトタン板のように波打つように掘って加工しているもので、山城の防御機能の一つである。
調査には地元の協力が不可欠ということで、市の職員の他、相生産業高校の生徒たちが手伝いに来ていた。測量調査が始まってしばらく時間がたったころ、一人の生徒が西ヶ谷に近寄って、
「この光明山城も立派だけれども、もっとすごい石垣のあるお城が自分の住んでいる瓜生(うりゅう)にもある。」と告げたのである。
西ヶ谷は興味を持ち、詳しく聞くと、山のふもとから山の上に向かって石垣がずうっと続いている、と言う。そこで、週末に訪れてみることにした。
冬枯れしている寒い日曜日、瓜生を訪ねた西ヶ谷は山の上の石垣を見て驚いた。安土城の石垣とも劣らない立派な石垣があったのである。それが感状山城であった。
近世の大規模な石垣は、栗石(ぐりいし)という裏側に埋め込む石があるが、この石垣にはそれがない。大きな石も使っていない。加工もされていない。自然石のみである。つまり、近世以前、中世の古い型の石垣であることがわかった。
西ヶ谷は、このような裏込め石の少ない石垣が山肌をぐるっと回っている山城は始めてであったので、大変驚きその価値に感動し、山から下りるとすぐに教育委員会に連絡をした。
その結果、光明山城の調査終了後、この感状山城の調査を行うこととなり、相生市をあげて3年をかけて発掘調査が行われたのである。
その後、国指定の史跡に認定され、山城愛好者から総石垣の城として広く知られることとなった。
西ヶ谷に感状山城のことを教えた高校生は今ではその名前もわからないが、彼の助言がなければこの城は世の中に出なかったわけで、そう思うと感慨深いものがある。

今回は、相生市教育委員会発行「国指定史跡 感情山城跡 講演記録集」より編集・引用しました。

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