相生いにしえこぼれ話 第122回 「浦山桐郎(うらやまきりお)監督が見た相生」
この番組は、地名の謂われや建造物、人物などの相生市内の歴史をお伝えする番組です。さて、今月はどのようなお話でしょうか
ではお聞きください
相生いにしえこぼれ話 第122回 「浦山桐郎(うらやまきりお)監督が見た相生」
1950年代までの市勢要覧(しせいようらん)を読みますと「相生市と播磨造船所は一体」で
あったことを実感するのですが、そうは言いつつも両者の間には複雑な感情がありました。
映画監督の浦山桐郎は「相生は土着と近代が相克(そうこく)する面白い街」として、
「深く入り込んだ湾の、女の子宮のように狭い薮谷(やぶたに)を縦ざまに、
向こう岸の造船所にかけて、新興のよそ者の町が貫き、左は漁師町相生(おお)、
右は近世の市場町(いちばまち)那波、そのいずれもが、土着の文化を色濃く残していた。
そして、これらとの相剋(そうこく)は明治百年の日本の縮図のような羨望と憎悪に
鋭く彩られていた。」と述べています。
桐郎は、相生市歌を作詞した歌人浦山貢(うらやまみつぐ)の長男として生まれ、
弁天町の社宅で育ちました。浦山貢は、旧制中学校を卒業した課長級の社員ではありましたが、
帝国大学卒が幅を利かせる造船所においては、「大学に行け、それも東大が良い」と
息子に繰り返すような位置にありました。
桐郎の育った町は、帝大卒の幹部社員から、工員・商人・半島から来た人々・遊郭までが
混然とする新興社宅街であり、社宅街の隣には漁師町・市場町がありました。
そして、地下(じげ)の人たちは、造船所のもたらす富と文化が町を発展させることを喜びながら、造船所の圧倒的な資本力と学力を羨(うらや)み、時には憎悪していたのでした。
桐郎は、子供のころ、播磨造船所のキューポラを見ながら相生小学校へ通い、
「キューポラのある町」で映画監督としてデビューしました。
この映画には、彼が見た相生の町の様子が投影されているように思えます。
この映画が公開されたとき、相生の映画館、旭館の最後列から故郷の人々の反応を確かめました。
その後も、桐郎は、こよなく相生を愛し、たびたび相生に帰ってきては
旧友との交歓を楽しみました。しかし、それにもかかわらず、彼は相生の地下の人間とは認められませんでした。ここに、造船所幹部社員の子弟と地下の人間の子供たちの位相の微妙なずれがあります。
今回は、浅野陣屋札座保存ネットワーク発行 松本恵司(けいじ)著
「相生若狭野旗本浅野陣屋 札座保存プロジェクト」より編集・引用しました。