大正の頃、相生(おお)地区と那波地区の子供たちは「犬猿の仲」だったようです。「犬猿の仲」といっても遊びの延長ですね。どんな様子だったのでしょうか。お聞きください。
~Sakki談~
相生大橋が出来、今では相生(おお)と那波は近くなりましたが、子供の頃、那波に住んでいた私はおおまでは遠く、すごく冒険をしたみたいな気がしました。相手の縄張りにどきどきしながらこそっと入っていくのは陣取りゲームみたいでわくわくしたでしょうね。
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第97回 相生古こぼれ話 「何故か犬猿の仲」
俗に「犬猿の仲」という言葉がある。顔さえ見れば何ということ無しにいがみ合う、というようなことであろうが、それを地でいっていたのが、大正末期の頃の那波と相生(おお)の学童たちであった。
この「犬猿の仲」の因習は、先輩から受け継いできたもので、なぜそうなったのか理由はわからないし、誰からも聞いたことはなかった。ただ、那波と相生の学童同士が出会うと、そこには必ずいがみ合いがあったのである。おそらく、学校の対抗意識から端を発していたのであろう。個人同士ではどうということはなかったのであるから。
現在、市役所前を南北に走る国道250号線はもともと境川(さかいがわ)の川床であった。そして、コープデイズの横を西に延びる道は、みなと銀行の辺りで境川にぶち当たり、川尻に向けて川尻橋と呼ばれる土橋が架けられていた。この橋が那波と相生の境界となっていた。
秋になると、果物の季節となる。甘柿や丹波栗の実がたわわに実る所が那波の丘ノ台にあることを、相生の子供たちは聞き伝えによってよく知っていた。丘ノ台の突端にある大避神社の裏手には、甘柿の木が3,4本あり、それに続いて栗林があったが、西側に造船所の社員社宅があるだけで人目に付かない場所であった。それに、那波に足を伸ばすということで、犬猿の間柄である那波の子供たちを意識して、スリルを味わうことになったものだった。那波の子供たちの縄張りを冒しているというスリルである。
柿畑では、監視役を入り口に置き、猿のように柿の木に登ると、勇んで懐いっぱいに柿の実をもぎ取るのである。目的を果たすと悠々と引き上げにかかるのであるが、よくしたもので、必ず誰かに見られているのである。
「相生(おお)のやつらが荒らしに来とったど!」となり、仲間を呼び集めて、「ここな柿泥棒!!」と勢いづいて追いかけてくる。「何を!那波のウスノロ奴らが」とやり返しながら足早に逃げる。那波の子供たちが川尻橋を越えてまで追いかけてこないのはわかっていたのである。橋を挟んで、さらなる罵声の応酬と石つぶての投げやりに発展するのであるが、争いもそこまでで、双方の子供たちは夕暮れとともにそれぞれ引き上げてゆくのであった。
今回は江見錬太郎著「ふるさと想い出の記」より引用しました。
(相生らじお「古こぼれ話」は見えるらじおを目指しています)